人の考えは面白い。例えば、落語。上方落語ではその真髄を「笑い」と捉えていて、兎にも角にも、貪欲に笑いだけを追及する話芸を磨くとのこと(ザックリ言っちゃうとね)。一方、江戸の落語は突き詰めていけば「人情噺」がその背骨に在る(ザックリ言っちゃうとね)。個人的な掴み方なのだが、上方落語の場合、「目線」が“客の側”にあって、江戸の場合“噺家の側にある”といった具合か。これはきっと、上方と江戸の落語の誕生や、進化の過程で起きた“差異”なのだろうけど。つまり談志師匠の有名なセリフ「落語とは業の肯定である」は江戸の落語に限ったことであり、上方のソレとは別モノなのだ。とはいえ僕はその両方の落語が好きで、噺家が好きで、今日も上方落語の「宿替え(江戸落語では『粗忽の釘』)」を車の中で聴きながら一人でゲハゲハ笑っていた。つまりは何が言いたいのかと言うとさ、人の価値観は千差万別多種多様、それぞれがそれぞれの色彩と、響き方を持っている。だから“今の”僕はそれら全てを否定したり反発することなく受け入れたいと考えている。たとえば、結婚観とか、仕事に対する考え方とか、原発の是非もそうです。浮世にはとんでもなく阿呆な人間が居て、結婚は人生の墓場だとか、仕事は生き甲斐だとか、原発は人類にとって希望の光だとかヌカしたりもするのですが、“今の”僕はそれらの戯言を聞いたところで微動だにせず、優しく微笑み、両の手を広げて、ほぉそうなのですか。ほぉそうですか。ほぉ、よござんすなあ。それにしてもYou are happy!!と言って、ギュっと抱きしめてあげたい。