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波と文学

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後部座席のミントブラウニーズ。

   




海は嵐、風がぶつかり合って、泣いていた朝。今日は、久しぶりに都会に行く日である。

久しぶりに友人に合う。夏に別れて、冬の再会である。

まずは甥っ子へのプレゼントを買い、珈琲豆を買い、タバコの葉を買い、

ここぞとばかりに、消費して、肩で風を切るぜ。

珈琲屋のアイツはコートが似合っていたね、

あの娘は来年結婚するってさ。ケーキ屋さんの笑った顔は、いつも通り優しい。

晩ごはん、何食べたっけ?高速道路で向かい風、桜島に雪。俺の派手なパンツが、冬。
 


真夜中の帰宅、

グアテマラ生まれの珈琲の穏やかな苦み。これから映画を観ようかな






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ミナミの果てのニシの端にて。

             




今日の職場が伊集院から上川内に変更になった途端、小踊り。出張で妻が居ないのも幸いして台所で全裸の舞。ひととおり喜びを表現した後で、手元に置いてあったバナナを勢い良く食べまして、そのまま荒れた海へ。ええ。「海が荒れている」ということは起床後の窓からチェック済みだったのですが、居ても立ってもいられなくなるというのはまさにこのコト。持て余した僅かな勇気を振り絞って、東シナ海に突入したものの、やはり僕のような軟弱者にはまだまだ手に負えず、難破。荒波に激しく飲まれて手も足も出ず。死ぬかと思った。ぜぇぜぇ言いながら白い顔で30分も経たないうちに海から上がり、山の上の温泉に行ったの、天国に迷い込んだ猿の顔して。



その後、昼から仕事。



一服休憩のときに、
パイプ椅子に腰掛けて眺めていたtwitterで「特定秘密保護法案が衆院本会議で可決したこと」を知り
タイ焼きを喉に詰まらせてまた死ぬかと思った。これでまたロクでもない世の中に拍車が掛かる。今現在の私の家はTV回線が無いため、地上波メディアの(不埒な)報道を知らないのだがWeb上では「安全保障の機密情報を漏えいした“公務員らへの罰則を強化する特定秘密保護法案”」と書かれていることが多い。これだと「公務員らへの罰則」というイメージが強く、「ははん、これは私たち庶民には関係のないことですね」と思いこみがちだが当然関係のあること。菅原文太親分の「この法案が通ったらトドメをさせられる」というキャッチーな言葉がやけに鋭利な刃物に感じる。嗚呼、黒い溜息が出る出る出るね。賛成や反対というよりも「自分の意思を主張すべく」議事堂を取り囲む全ての人々に敬意を示し、私はここ【ミナミの果てのニシの端】で、自分に出来ることを探し、淡々とそれを積み重ねてゆく所存であります。言いたいことも書きたいこともムカつくこともそりゃたくさんあるけど淡々と、静かに。




皆さまの明日が、少しでも楽しくなりますように。てな具合に、


手を合わせて。






・追伸

特定秘密保護法案の内容について、
またそれについて賛同する人、反対する人の意見や価値観や、その人が言う愛の意味について。
自分でいろいろと調べて、自分なりの認識を心に置いておいた方がいいと思うよ。



明日の朝が来たら

             


「芸術ってさ、人間しか享受できないものだから・・・」という言葉を仲の良い友人がこぼした。言葉の真意はさておき、別の友人は“車を所持しない理由”に「人間しか享受できないものだから」と言っていた。「ウサギとか、猫とか、木とかさ、そういうヤツらが運転できるものなら、ボクも車を持ってもいいなあ」、と。その話を聞きながら、やけにわくわくしたのを覚えている。

人の考えは面白い。例えば、落語。上方落語ではその真髄を「笑い」と捉えていて、兎にも角にも、貪欲に笑いだけを追及する話芸を磨くとのこと(ザックリ言っちゃうとね)。一方、江戸の落語は突き詰めていけば「人情噺」がその背骨に在る(ザックリ言っちゃうとね)。個人的な掴み方なのだが、上方落語の場合、「目線」が“客の側”にあって、江戸の場合“噺家の側にある”といった具合か。これはきっと、上方と江戸の落語の誕生や、進化の過程で起きた“差異”なのだろうけど。つまり談志師匠の有名なセリフ「落語とは業の肯定である」は江戸の落語に限ったことであり、上方のソレとは別モノなのだ。とはいえ僕はその両方の落語が好きで、噺家が好きで、今日も上方落語の「宿替え(江戸落語では『粗忽の釘』)」を車の中で聴きながら一人でゲハゲハ笑っていた。つまりは何が言いたいのかと言うとさ、人の価値観は千差万別多種多様、それぞれがそれぞれの色彩と、響き方を持っている。だから“今の”僕はそれら全てを否定したり反発することなく受け入れたいと考えている。たとえば、結婚観とか、仕事に対する考え方とか、原発の是非もそうです。浮世にはとんでもなく阿呆な人間が居て、結婚は人生の墓場だとか、仕事は生き甲斐だとか、原発は人類にとって希望の光だとかヌカしたりもするのですが、“今の”僕はそれらの戯言を聞いたところで微動だにせず、優しく微笑み、両の手を広げて、ほぉそうなのですか。ほぉそうですか。ほぉ、よござんすなあ。それにしてもYou are happy!!と言って、ギュっと抱きしめてあげたい。

反抗に伴う“継続性”にはそれなりのパワーが必要で、
それを成し遂げるには(ひょっとすると)手前の大事な大事な一回きりの美しい人生をまるまる捧げなければならない。勿論、それはそれで、悪くない人生かもしれないけどさ、敢えて言うなれば「肯定の美学」という価値観を少しずつ養っていければ幸いです。山ではなく、海を選んだ人間の一人として。まだまだ手探り五里霧中の日々とはいえ、排他ではなく出来る限りの協調と、先の見えない「システム」の端っこで暮らす“現代人”の一人として、波と家族と、文学片手に世を遊ぶ古本屋としてタコ焼き屋として詩人として。人ありきの芸術の醍醐味を追及する人間の端くれとして。

先端でもなく底辺でもなく、
異端でもなく俗でもなく、
右でもなく左でもなく、
それらに溶けて溶かせて混ぜて合わせて、受け入れて、
「これでいいのだ」の日々を過ごしたいだけ。

まずは、
家の向かいに住んでいる九州電力職員のババァに「やあ」と挨拶してみるか、明日の朝が来たら。

あの風にのって

                             


小雨の中、海原で、板一枚にまたがって漂う。

眼前から、自分の背丈の二倍はあろうかという荒い波が迫ってくる。思わず息をのむ。

こんなとき、もしも自分に上等なスキルや十分な経験、
或いはそれらから滲み出る上質な「勘」のようなものがあれば、何てことはない。
しかるべき手段をもって、その波を乗りこなし、テンション上がればいいじゃない。

しかし、私はペーペーの、トーシロの、32歳の、オールドルーキー。しかも軟弱で、
ひょろひょろで、不器用で、嘘つきで、無責任で、体力不足で、甲斐性なし。
当然、海の中の満足なスキルも経験もないから、勘なんて働かない。不安である。
そして不安が生みだす「恐怖心」がこれ半端ない。八方塞がり、ただただ孤独。
さっさとお家に帰って温かいお風呂にでも入って、
珈琲を淹れて、モンハンでもしようかと思う。しかし、
それでは進歩や上達がないことを知っている。なぜなら32歳であるからね、私は。
海の上の経験値は心細くても、浮世の暮らしの経験値は32年分あるのです、
だから知っています。逃げるのは簡単ですが、挑むことで得られる果実があるのです。

そのとき、南の方角から雨雲がもくもくとやってきてバシャバシャと大粒の雨を降らせた。
波がなお一層高くなり、荒れた。よし、これは逃げようと思った。

だいたい「逃げちゃダメ」なんて誰が決めたんだ。碇シンジか、
彼は人類存続の使命と、秘密結社の野望を託された少年だから仕方ないかもしれないが、
古本屋で、タコ焼き屋で、詩人の私にはまるで関係のないことです。

何かが起きたときに気軽に「逃げるな」という大勢のヤツに言ってやりたいよ私は、

「じゃあさ、君は何かから“本気で”、逃げたことがあるのかい?」ってね。


本気で逃げることの厳しさや美しさを知らないヤツこそ、
この乱暴な資本主義経済の荒波に飲まれちまうぜ。だから私は逃げるのです。
東シナ海の荒波に飲まれる前に、颯爽と、愉快に、あの風にのって。






peace













仕事サボって波が上がるのを待つのに

          


朝から海へ出て、浜辺に残った風と人の足跡を眺めながら波の音聞いて、
山からさす日光が夜の侘しさ掻き消すのを実感しながら、頭を空にした。

寝ている間に雨が降ったようだ。



しばらくして、携帯電話でtwitterを読めば、
手のひらで街の喧騒と歌声がザワめいた。
そんなことを繰り返しながら、アイツは島で絵を描いているんかな、
アイツは山で畑を耕しているんかな、
アイツはヨーロッパの路地裏で楽器を吹いているんかな、
アイツは東アジアのオフィスで札束数えているんかな、

相変わらず、詩は、
私の身体を、頭を、心を、通り過ぎて宙空でアザ笑い、消えてゆく。
朝を歌うスズメの小さな鳴き声と、
夜のままだと勘違いした虫の声が耳の奥で混ざり、
国道3号線は日曜気分のファミリーを積んだ車が列を作る始まりの合図。



あああ、ひょっとこのようなうねりが、沖から浜に続いてら

今日が日曜じゃなかったら、仕事サボって波が上がるのを待つのに。




peace