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波と文学

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ベンチシートの3人。

1370キロを経て浜松にいる妻と息子に久し振りの再会、それまでの思い出つらつら。6日間寝泊まりした島根から南下、最後に波乗りした日本海の荒れた海面。岡山で世話になった家族のご主人の本名はシマダシゲルなので皆、彼を呼ぶときにはシマちゃんや、シゲちゃんと言っていたのだが、どういう因果か僕は彼のことを三日間“キヨちゃん”と思い込み、そう呼び続けており、お別れの時に「キヨちゃんじゃないよ」と本人に言われて気まずい思い。倉敷では、小久保淳平くんの粋な計らいで彼のライヴにてポエトリーでセッションさせてもらった。香川は高松にて旧友とボケまくりの一夜を過ごす、涼しげに笑い転げて朝が来て。たこ焼きを食べ比べるためだけに寄り道した大阪でアジア系観光客の多さに驚き、10年前とは完全なる別世界が広がっていて。チアフルのまことさんと大悟とは終始3人で大笑いのドライブ。アイツの恋の行く末に祈るささやかな幸せの結末、そして夏が過ぎて、車窓を、移ろう景色と夜風が溜め息を連れてきて秋。
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日本海のほとり、パサールにて01

目を覚ませばいつも通り海が広がっていて安心するのだがそれは東シナ海ではなく日本海だからいつもとは何か違う。一昨日の朝から、僕はチアフルのまことさんと、その丁稚のダイゴと3人で島根県のパサール満月海岸というところにいて多くのヒッピーに混ざり人の唄を聴いたり、物を売ったり、波乗りしたりしている。緩やかに過ぎていく時間の中でまことさんは相変わらず下ネタばかり言い、ダイゴはくすくすと笑い、僕も負けじとああだこおだ意味が無かったり在ったりすることを言っている。昨夜は東京から来ている眼鏡を掛けた女と、どこから来たのかはわからない罠猟の資格を持つ女と、平和系という名前の面白い男と、僕ら3人で、魚や野菜や肉を焼きながら「サイケデリック」をテーマにアレコレ問答していると深夜の3時が過ぎており、おやすみなさいと言って居なくなった罠猟の女と入れ違いでコメさんという初老の岡山ヒッピーがやって来て「昔はサイケデリック♪今は自然デリック♪」などと訳のわからない唄を唐突に歌い出す始末。「星や、月が行き先を教えてくれる。」「意味がないとわかりきっていることをあたかも意味があるかのように話すから愉しい。」「何度も失敗を繰り返し、サイケデリックに近付いてゆく。そう、それがスーパーサイケ人なのだ。」「鳥山明は高校の同級生でした」などと、名言と迷言 の連発に腹を抱えて笑っていると午前5時。僕は終始、フットボールで云うところのボランチのポジションで皆に話題を振ったり、トークペースに強弱をつけたり、時より強引なシュートを自ら決めにイッタ平和系くんに「ステージに居るときよりも、好きっすね」と言って、テントに戻り2秒で寝た。相当愉快な夜だった。日本海は、無表情に、テントの裾を夜風で揺らしていた。

てげよゆう

停電が48時間以上続いている。初めての経験である、独り暮らしの最中ということもあり、割と満喫している。二階の突きあたりにある僕の小さな書斎にリクライニングチェアを置いて、窓から月明かりを眺めながら、自家製のキャンドルに火を灯せば読書も出来る。冷蔵庫の中のものさえ気にしなければ誰も知らない西の孤島までヴァカンスに来た気分を味わえなくもない。十時前に寝て、夜中に目を覚まし、読んだことのない古い詩人の詩集を捲れば、またすぐに眠たくなる。秋の虫が途切れ途切れの音を奏でる。月明かりが海面を踊る。野良猫の足音&さわ蟹のひそひそ話、夜風はだれかの寝息で始まる。

それにしても、電力会社の労働者のみなさんは昼夜問わず復旧作業に励んでいらっしゃるのでしょうか、大変有り難てえこった。今朝は水引の民家やコンビニエンスストアやガソリンスタンド、自動販売機、信号機、が稼働していたThunks。西方はもう目と鼻の先だ、エレキ時代に生まれ育った僕らはいつの間にか世界に”ソレ”が在ることが当たり前になり過ぎている。それは勿論、電気だけではないんだなきっと。捉えているつもりが囚われていて使ってるつもりが消費させられているだけ、みたいな。そんな。可笑しな。暮らし。でんぐり返した、みたいな、世界が西の孤島の短い夏休み。

浜松日記04

分娩室に移動してから子供が産まれるまでの時間はもうはっきりと覚えていない。10分程度だった気もするし、1時間くらい掛かったかもしれない。延々と待たされた気もするし一瞬で終わった気もするが、一生忘れない瞬間に間違いはない。どのタイミングで、あのテレビで見たことのある濃い緑色の、医者が着てそうなアレを、僕も着させられるのかとドキドキしていたのだがそのような事態になることは一切なく、僕のことなんて誰も気にしていない様子でお産が始まったのには拍子抜けた。ひとの命が産まれてくるその時に、命懸けの妻と、それを支える医者と、その空間に一人だけ普段着で存在する自分が可笑しく思えた。

息子が誕生した瞬間、僕は意外と冷静だった。

得たいの知れない多幸感に覆われて僕はついに死んでしまうのでは、と楽しみにしていたものの、妻を見守り続けた僕の10カ月は息子の小さな産声と柔らかい光に包まれて、妻の涙に呆気なく流された。産まれたばかりの子供を胸元に抱いて、美しい涙を流している彼女の横顔を僕はたぶん一生忘れない。


結婚四年目で三人家族になった、


彼女と、僕と、三人目の「私」という意味を込めて、僕らは彼に【三吾】と名付けた。

僕はついに父親になってしまった。

これから先の困難や幸福を、人の親として味わい続けていくわけだが、今は当然、実感なんてない。だけど気付いてしまった、僕は、この子の父親になるために34年前に産まれたということを。

浜松日記03

夜が明けるのが先が、手術が先か。という曖昧な不安を抱きながらついに朝日が窓から差し込む。妻が入院して、2回目の朝を迎える。ひとまず、山は越えたとのこと、医者がやってきて丁寧な説明をしてくれる。安心したのも束の間、破水して時間が経っているため感染症の危険性が高まっており、なおかつ予定日から9日が過ぎ腹の中の子も充分な大きさの為、妻の腕に陣痛促進剤を点滴することを促される。心配性な妻の選んだ信頼のおける大きな病院ではあるものの、ワケのわからん薬を様々な理由で投与されることに対する不安と勘繰りと抵抗は当然ある。成分を聞き、ネットで調べて、リスクとメリットの天秤を測る。 ぐぬぬと思う節も見当たるのだが、心電図から聞こえてくる赤子の声の一時的な弱まりが決断の尻を蹴り上げて決行の合図。本当に、少量を時間を掛けて妻の腕から体内へと流し込み、子宮を刺激させる。

その2分後には、効いてキタ!下腹部に痛みが出てキタ!先生!効いてキテます!と妻が言う。はええな、さすが現代医学、現在の魔術!などと感心しそうになったのだが間髪いれずに看護師が「まだ管のなかを移動中なので、腕にまで到達していません」と、気まずそうに伝えてくれた。僕は妻の顔を横目で見ながら、恥ずかしいアホめ。と思った。

妻は負けじと、いいえ!それでも効いてキテます!とワケのわからんことを言っていた。

朝から始まった促進剤の投入も、昼を過ぎて、時計の針が15時を回った頃、妻も苦しそうな様子をみせ始める。室内は快適な気温が保たれているのだが、唸り声と共に体温が高まり、彼女はすっかり汗だくになっていた、陣痛がはじまっているようだ。身体を捻らせて叫び声を上げる。顔が炎のように赤い。隣の部屋から看護師が二人、三人、次々と駆け付けてくれて妻を落ち着かせようと試みてくれるのだが、彼女は痛みに心が追い付かず、暴れる。医者の説明では、早くても今夜か、明日の出産になるということだったが、それまで彼女の体力が持つのだろうか、僕の額に、大粒の汗を垂らす不安が踊る。つーか出産じゃなくてまだ陣痛なのにマジかよ聞いてないよ、場面は混乱と錯乱のお祭り騒ぎだったが僕はそれら全てを見守ることしか出来なかった。


早くても今夜、という医者の言葉が空耳かと疑いたくなったのは16時半を過ぎて陣痛室から分娩室に移動させられる妻の姿を見た時だった。よくある“生まれたての小鹿”の物真似をしているのかと笑いたくなるほど器用に、小鹿の真似をしながら部屋を移る妻を見て、マラソンランナーを路肩で応援する観衆が持っている小さな旗が欲しくなり、婦長のような女に「あの旗、ありませんかね?」と、尋ねるも無視を決められて寂しくなった。