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波と文学

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明日の朝が来たら

             


「芸術ってさ、人間しか享受できないものだから・・・」という言葉を仲の良い友人がこぼした。言葉の真意はさておき、別の友人は“車を所持しない理由”に「人間しか享受できないものだから」と言っていた。「ウサギとか、猫とか、木とかさ、そういうヤツらが運転できるものなら、ボクも車を持ってもいいなあ」、と。その話を聞きながら、やけにわくわくしたのを覚えている。

人の考えは面白い。例えば、落語。上方落語ではその真髄を「笑い」と捉えていて、兎にも角にも、貪欲に笑いだけを追及する話芸を磨くとのこと(ザックリ言っちゃうとね)。一方、江戸の落語は突き詰めていけば「人情噺」がその背骨に在る(ザックリ言っちゃうとね)。個人的な掴み方なのだが、上方落語の場合、「目線」が“客の側”にあって、江戸の場合“噺家の側にある”といった具合か。これはきっと、上方と江戸の落語の誕生や、進化の過程で起きた“差異”なのだろうけど。つまり談志師匠の有名なセリフ「落語とは業の肯定である」は江戸の落語に限ったことであり、上方のソレとは別モノなのだ。とはいえ僕はその両方の落語が好きで、噺家が好きで、今日も上方落語の「宿替え(江戸落語では『粗忽の釘』)」を車の中で聴きながら一人でゲハゲハ笑っていた。つまりは何が言いたいのかと言うとさ、人の価値観は千差万別多種多様、それぞれがそれぞれの色彩と、響き方を持っている。だから“今の”僕はそれら全てを否定したり反発することなく受け入れたいと考えている。たとえば、結婚観とか、仕事に対する考え方とか、原発の是非もそうです。浮世にはとんでもなく阿呆な人間が居て、結婚は人生の墓場だとか、仕事は生き甲斐だとか、原発は人類にとって希望の光だとかヌカしたりもするのですが、“今の”僕はそれらの戯言を聞いたところで微動だにせず、優しく微笑み、両の手を広げて、ほぉそうなのですか。ほぉそうですか。ほぉ、よござんすなあ。それにしてもYou are happy!!と言って、ギュっと抱きしめてあげたい。

反抗に伴う“継続性”にはそれなりのパワーが必要で、
それを成し遂げるには(ひょっとすると)手前の大事な大事な一回きりの美しい人生をまるまる捧げなければならない。勿論、それはそれで、悪くない人生かもしれないけどさ、敢えて言うなれば「肯定の美学」という価値観を少しずつ養っていければ幸いです。山ではなく、海を選んだ人間の一人として。まだまだ手探り五里霧中の日々とはいえ、排他ではなく出来る限りの協調と、先の見えない「システム」の端っこで暮らす“現代人”の一人として、波と家族と、文学片手に世を遊ぶ古本屋としてタコ焼き屋として詩人として。人ありきの芸術の醍醐味を追及する人間の端くれとして。

先端でもなく底辺でもなく、
異端でもなく俗でもなく、
右でもなく左でもなく、
それらに溶けて溶かせて混ぜて合わせて、受け入れて、
「これでいいのだ」の日々を過ごしたいだけ。

まずは、
家の向かいに住んでいる九州電力職員のババァに「やあ」と挨拶してみるか、明日の朝が来たら。
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あの風にのって

                             


小雨の中、海原で、板一枚にまたがって漂う。

眼前から、自分の背丈の二倍はあろうかという荒い波が迫ってくる。思わず息をのむ。

こんなとき、もしも自分に上等なスキルや十分な経験、
或いはそれらから滲み出る上質な「勘」のようなものがあれば、何てことはない。
しかるべき手段をもって、その波を乗りこなし、テンション上がればいいじゃない。

しかし、私はペーペーの、トーシロの、32歳の、オールドルーキー。しかも軟弱で、
ひょろひょろで、不器用で、嘘つきで、無責任で、体力不足で、甲斐性なし。
当然、海の中の満足なスキルも経験もないから、勘なんて働かない。不安である。
そして不安が生みだす「恐怖心」がこれ半端ない。八方塞がり、ただただ孤独。
さっさとお家に帰って温かいお風呂にでも入って、
珈琲を淹れて、モンハンでもしようかと思う。しかし、
それでは進歩や上達がないことを知っている。なぜなら32歳であるからね、私は。
海の上の経験値は心細くても、浮世の暮らしの経験値は32年分あるのです、
だから知っています。逃げるのは簡単ですが、挑むことで得られる果実があるのです。

そのとき、南の方角から雨雲がもくもくとやってきてバシャバシャと大粒の雨を降らせた。
波がなお一層高くなり、荒れた。よし、これは逃げようと思った。

だいたい「逃げちゃダメ」なんて誰が決めたんだ。碇シンジか、
彼は人類存続の使命と、秘密結社の野望を託された少年だから仕方ないかもしれないが、
古本屋で、タコ焼き屋で、詩人の私にはまるで関係のないことです。

何かが起きたときに気軽に「逃げるな」という大勢のヤツに言ってやりたいよ私は、

「じゃあさ、君は何かから“本気で”、逃げたことがあるのかい?」ってね。


本気で逃げることの厳しさや美しさを知らないヤツこそ、
この乱暴な資本主義経済の荒波に飲まれちまうぜ。だから私は逃げるのです。
東シナ海の荒波に飲まれる前に、颯爽と、愉快に、あの風にのって。






peace













仕事サボって波が上がるのを待つのに

          


朝から海へ出て、浜辺に残った風と人の足跡を眺めながら波の音聞いて、
山からさす日光が夜の侘しさ掻き消すのを実感しながら、頭を空にした。

寝ている間に雨が降ったようだ。



しばらくして、携帯電話でtwitterを読めば、
手のひらで街の喧騒と歌声がザワめいた。
そんなことを繰り返しながら、アイツは島で絵を描いているんかな、
アイツは山で畑を耕しているんかな、
アイツはヨーロッパの路地裏で楽器を吹いているんかな、
アイツは東アジアのオフィスで札束数えているんかな、

相変わらず、詩は、
私の身体を、頭を、心を、通り過ぎて宙空でアザ笑い、消えてゆく。
朝を歌うスズメの小さな鳴き声と、
夜のままだと勘違いした虫の声が耳の奥で混ざり、
国道3号線は日曜気分のファミリーを積んだ車が列を作る始まりの合図。



あああ、ひょっとこのようなうねりが、沖から浜に続いてら

今日が日曜じゃなかったら、仕事サボって波が上がるのを待つのに。




peace





また少しだけ自由に、踊り始めている気がして、

          



ヤフオクで1円のスニーカーを落札しました山下です。こんばんは、
ご機嫌いかがでしょうか?




詩は歴史に対して垂直に立っていると言ったのは足穂か。
記憶は曖昧ですけど。
それにしても、この家には「ハエ」が多い。
天井や、壁や、私の腕や、テーブルの上に止まるハエの平衡感覚はさぞかしタフですね。
私が毎朝眺めているこの海の果ての水平線も、
天井や壁に止まっているハエの視点で見れば縦や、逆さ。しかし、
飛行するときは足がちゃんと下にあるんだよなハエ。それは重力か、重力の仕業なのか、
不思議です。それにハエはいつ寝ているのでしょうね、
寒い日はどこに行っているのでしょうね。
近頃、手塚治虫の火の鳥を何度も読み返していて、
輪廻転生みたいなものを、しみじみと意識させられているもんで、
たとえば明日死んだ私が、ハエになることを考えると、
死ぬのも悪くないね、なんて心にも無いこと書いちゃう。とか思っちゃう時点で、
ひょっとすると前世の私はハエだったのかもね、まさかね。


近頃はやけに坦々と日々が廻る。


テレビ回線を設置していないお陰か、
インタネットでニュースを見ることも最低限に控えているし、
心がとても平(たいら)なのです。一概にこれが良いことと言えないのは、
自分は、葛藤や、後悔や、日々の虚無感や浮世の矛盾やその憤りのような感覚を、
文学に換えて表現することが過去に多くあったのであって、
心が平な状態ではなかなか、「創る」ことが困難な状況にある。というのも、
30日に蒲生で開催されるイベントに招待されており、
ポエトリーリーディングを一席ブたして頂くわけなのでございますが、
それの準備がまるで“ままならない”というワケなのだ、そんなとき、
人の3倍のスピードで髪の毛が伸びるあの芸術家ならこう言うね、

「それなら、それを詩にすればいい」




この頃、このBlogを書くことを意識しているせいで、
幾分、脳みその使い方も思いだして、まだまだぎこちない心地ではあるが、
言葉が、また少しだけ自由に、踊り始めている気がしてなんとなくうれしい。





ストーブの灯油がもう空になった。

emptyとskyの漢字が同じというのは、

日本語の「好きなところ」の一つである。




今日の夕食は、チキンソテーとサラダ。
白米玄米。豆腐。ハマ家から貰いものの芋の入ったスープ。ご馳走様でした。



さて、久しぶりにDVDで観るか。



コレだ!というブリーフが見つからない日々

          


朝、風呂を浴びて、
読書する。しばらくすると奥さんが「あー、お腹すいたっす」と言いながら起きてきて、
ちゃちゃっと朝食を拵えてくれる。そして、石垣島の、
ペンギンさんとこのラー油の話で盛り上がる食卓。

イタダキモノのそれを眺めながら、「幾らくらいするのかしらねー」とプライス予想。
奥さんは「三百八十円なら、いつも買いたいね」と言う。
「五百円くらいするんじゃないんすか?」と私。むしょうに気になり、調べてみる。



100gで800yen。



これはもう貴族の食べ物。我々にはまだ早いということで結論。


食後、警察署に、車庫証明発行の手続きに行き、そのあとで借りていたCDを返却。
ついでに私は枝雀師匠の「THE 枝雀」を借りて、奥さんは「相対性理論」を借りた。
山へ水を汲みに行き、帰りにプラッセで夕飯の買い物と、
二階の衣料品売り場を冷やかして、温泉経由で帰宅。小さな雨が降り出した。


今夜は白菜と豚肉のミルフィーユ。
野菜も肉も、鹿児島産は本当に美味しい。ありがとうございます。


月末、奄美と、関東から、友人が来る。
本当に楽しみだ。