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波と文学

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阿呆の消費者、すかすかの魂。

           

こちら侘しい漁村より、お届けいたしております。
雨が降りそうで、ららら。降らないのね、ねねね。といった空模様ですね。


先日の知久寿焼Live @ WALK INN STUDIOの余韻を引きずりつつ暮らしている。

近頃は、“人が命懸けで作ったモノ”だけに、金を払いたいという気持ちが特に強い。

というか、「作品」てそういうものなのだが、


お芝居、音楽、映画、絵画、小説などなど、作り手の魂というか、執念というか、怨念というか、決して、ポジティブだけではない様々な色や形の気持ちや歴史がハミ出すほど詰め込まれていない作品やイベントはますます糞だな。色とりどりの演者と興奮気味の観客が生みだす“空間”が素敵になることは当たり前なのだ。ああ~楽しかったコレで2,500yenは安いねえ~なんつーのは阿呆の消費者、すかすかの魂。背骨がきりきりする瞬間だけを捉えたい。

もはや観てから1カ月以上が過ぎてしまった「劇団どくんご」出水公園の鬼気迫るユーモアと役者の生き様は痛烈だった。その前の月に観た大竹しのぶが林芙美子の生涯を演じる井上ひさし脚本のお芝居も“本物”のさりげない演技に込められた役者の魂の歴史に眩暈がした、遠かったけどね、舞台までの距離が超。などなど、

古本屋だけをやっていた貧乏人時代に比べて(今も貧乏には変わりはないのだが)「暮らし」に掛かる阿呆な出費を幾らか抑えられているお陰で人並みに娯楽に回せるお金が出来ていることは嬉しい。娯楽というか、趣味というか、刺激というか、学びというか、盗みだけどね全ては、俺、詩人だからさ。

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冷たく、ぬらり。

            




労働して小銭を稼いだのち、帰宅して日暮れ時にnora work.ついに、面倒だった根っこ取りの作業を終えて苗を植える。シソ、ネギ、トマト、小玉西瓜、バジル、ミント。それらに茄子を後日追加する予定、徐々に、恵みのある場所を作っていきたい。肥料は隣りの海で採れる海藻を使う予定。

近所の【珈琲 豆子(コウヒイ マメコ)・豆太郎(マメタロウ)】夫婦から、ご自慢の“西方最深の井戸水”を分けて貰えることになった。大正時代から一族に飲まれている水である、冷たく、ぬらり。透明度も高い。この純水で、良い実が成ることを期待する。




                           




頭の上に、厚揚げをのせて歩いていた老人は、今頃どこに居るのだろうか。



海辺の畑のこと、それと、君は君のTRUNKに何を詰めるか?

      



午前、野良仕事をしていた。5月とはいえ海辺の日差しを侮るなかれ、
11時の太陽に照らされ続けて、肌はてりてりと泣いた。

一昨日、草刈りの後で土起こしをしているところにたまたま現れたゾノ子さんから、
「この根っこだけはしっかり取っておかないと・・・後で大変なことになるわよ」と言われたのだが、その時の表情がまるでその根っこに家族を殺された人間のそれであり、鬼気迫る迫力に圧倒された僕は、もうとにかく何が何でもこの根っこだけは取り除かねばと観念した。


疲れた。

だいたい、土の中は根っこだらけである。

本気でやればやるほど、終わりが遠ざかるのである。おまけに結構、石ころもある。

土を掘り起こしては根を取り、石を取り、汗を拭き、弱音を吐き。海辺の畑で一人、
それらの行動を延々と繰り返していた。


そんな僕の頭上にも昼のチャイムが鳴り響いて、今日の野良仕事は切り上げて帰宅しようと軍手を外したタイミングで隣りの隣りに住む退役軍人ようなオジさんがやって来て「よぉ!頑張ってるなその調子!畑は根性やっど!」と、要らぬゲキを飛ばして来るからまた帰れなくなる。

根性。一番苦手な言葉であり、
僕からもっとも遠くにあると言われている「精神の形」である。

退役軍人からそのような無粋なことを言われて、
別に僕の中の小さな根性を奮わせて、見せ付けるつもりはなかったのだが、
「根性ナシのヒゲ眼鏡、百姓の真似事しやがって、それが今の若者の流行りか。」と、
勝手に思われるのもどことなく癪な気がして、もう一度軍手をつけて、
もう少し作業を続けることにした。帰宅後は水風呂に入り、早々に撃沈、日が沈むまで寝て。



話は変わり、大阪で美容師をやっていた古くからの友人が故郷に帰ってきて自分の店をオープンさせた。
石を投げれば美容室に当たるという「ことわざ」が示すように、
このちんけな田舎町にも、そのような類のお店はたくさんある。そんな中、
自分の夢に従順に、ハートのわくわくそのままに、
それを形にして暮らしていこうという心意気に心からの敬意を示したい。
こちらがお店のblog、【TRUNK for hair】

この町を盛り上げるために、ともに!!などというスポーツマンシップに満ちた猛る気概は僕自身まったくないのだが、自分たちの好きなことを好きにして結果的に、町のためになれば楽しい。と考えている。
これから、ますます面白いことをやっていきたい。

実は、おおっぴらにデザイナー業をやっているわけではないのだが、
月に数件、依頼が来るときがある。
今回は、TRUNK for hairのロゴ、チラシ(三つ折り)のデザインをさせてもらった。
本人の個性と、店のイメージがしっかりと反映したモノになったと自負している。Thanks,

ま、ぼちぼち頑張っていこう。この暮らしの中で、





・表麺


・裏麺

細い竹の先のブリ。

               


帰宅すると郵便ポストの中に小さな紙片の手紙があって、

「連絡をください。 ウエゾノ ゾノ子」と綴られていた。


一カ月ほど前に、港を散歩中。
左手に虫取り網を持ち、
右手の細い竹先にブリの頭を突き刺して、
そのブリの頭を水中に浸けてぬらぬらと動かし、
それにつられて寄って来た小海老や蟹、小魚を左手の虫取り網ですくうという一風変わった漁を楽しんでいたのが「ウエゾノ ゾノ子さん」なのだ。 
私は、見たことのないその原始的な“やり方”に唖然として目をちょぱちょぱしながら立ち尽くしていた。
それに付いたゾノ子さんは、
「お、ちょっと待ってね」と言い、
岩陰から別の虫取り網と細竹(ブリ、セット済)を取り出して「はい、これ使って」と手渡してくれた。


まるで、僕が今日ここに来ることが決められていたかのような手際の良さに感心すると同時に、見ず知らずのヒゲ眼鏡に対して、心をフルオープンで接してくれるゾノ子さんの天真爛漫な所作に僕はメロメロだった。ゾノ子さんが50歳若かったら2秒で恋に落ちていたかもしれない。それから、僕とゾノ子さんの交流は始まったのだ。ここで、冒頭に話を戻す。

「連絡をください。」という手紙をゾノ子さんは残していったのだが、僕はゾノ子さんの連絡先を知らない。つまりこの場合の「連絡をください」は「私の家に来てください」という意味になる。どうしたのだろうか、小海老がたくさん捕れたのだろうか、などと考えながら僕はゾノ子さんの家に向かった。



「ほら!あなたが探していた畑、見つかったわよ!」ゾノ子さんから開口一番にそう言われた。



この辺境に引っ越して来て半年、ようやく、暮らしに土の匂いが漂い始めた。
僕はとても嬉しく思う。ありがとう、ゾノ子さん。


その気持ちを必殺の“玉ねぎ”で表現する為に、
一度帰宅して妻と玉ねぎを連れてゾノ子さんの家に向かうことにした。

「ありがとう!ゾノ子さん!お礼に玉ねぎ持って来たよ!」と言うのと同時に、
土間に別の玉ねぎが10個程度転がっていることに気付いて非常に気まずかった。
妻は舌を出して可愛い顔で誤魔化していた。
「これは買ったやつなの!買ったやつなの!」という、
ゾノ子さんの意味のわからないフォローがまた骨身に沁みた。

なにはともあれ。暮らしは順調だ。






・備忘録

5/17 鹿児島市内からマイティが訪ねて来てくれた。
たまたま店に来ていた「ノータリン先輩」と大いに盛り上がっていた。

5/18串木野からゾンビ君が訪ねて来てくれた。
ブラザーと言って缶珈琲を渡してくれた。半年ぶりの再会。
痩せます!と声高々に宣言していたアイツは前以上に肥えていた。


僅かな不安を靴の底に踏みつけて

            

10代の頃、何かで読んで記憶の淵にこびりついたエピソードがある。それは古いアメリカの話だ。

とある白人の青年が黒人に暴力をふるい、
「すべての黒人はアメリカから出て行け」などと過激なことを言った。
青年は警察に捕まり裁判にかけられるのだが、
その青年についたのが腕利きの“黒人弁護士”だった。

「この青年の言っていることを肯定するわけにはいかないが、
この青年がこれを言う権利は、全力で守るつもりだ」

15年以上前に読んだ話で、
正確に覚えているわけではないのだが、
個人的な“尊厳”を汚されても、
その大いなる「自由」を守るという黒人弁護士の姿に、子供ながら猛烈に感動した。


それと似たようなことが、いま日本で起きている。
スピリッツのその漫画は読んだことがないから詳細は知らないが、
政治家が口を挟むほどの問題ではないだろう。
相変わらず阿呆め。ひょっとこめ。
それならば、政府として、しっかりとした「安全」を提示し、
僅かな不安を靴の底に踏みつけて暮らしている民衆の得体の知れない「恐怖」を取り除くべきだ。ひょっとこめ。

はっきりとしない真実を置き去りにしたまま窮屈な感情に支配されてぎゃぎゃぎゃと騒ぎ、
一人の言論を封じ込めようとする偽りの「正義」を装った愚行にも映る。


何があろうとも、「表現」を殺してはならない。その一点において、
僕たちはどこまでも自由であるべきなのだ。