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波と文学

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夏のはじまり。

               

車でちょうど一時間半。年の初めに「今年こそよろしくお願いします」と言葉を交わして以来、なんだかんだ毎月行くやら来るやらしている友人の家へ一人で。ダイニングテーブルで長い間他愛も無い話を散らかしていると夜の七時半が過ぎていた。「そろそろ川で泳ぐ?」という友人の言葉の意味が最初はわからなかった。初夏と呼ぶには数日早い梅雨の夕暮れ雨上がり、なぜかバスタオルを持って、川へ。足だけを冷たい水の中に浸けて「やっぱりまだ寒いよぉ」と情けないこと(当たり前のこと)を言う俺の後ろで友人は既に全裸になっていた。あ、阿呆が居ると思った。大声で「誰か助けて阿呆がいるよ!」と叫びたかった。

小刻みに震える午後七時四十五分の俺と、
なぜか楽しそうに雨上がりの川の強い流れに身を任す阿呆。
奥歯がカチカチなる俺とキャキャキャと歓声をあげる阿呆。
そろそろまばらな星を見上げる俺と、完全なる魚と化した阿呆。
しばらく眺めているうちに、
おかしな感情が湧き始めた、あれ、これ阿呆なのは俺かな?

泳ぐが正解で震えるが間違いで楽しむが正解で戸惑うが不正解で遊ぶが正解で遊ばないは間違いだろう、いつだって。そして俺も全裸になった。空の上から僕らを指さして「あ、阿呆がいるよ」と笑う神様の声が聞こえた気がした。僕にとって33回目の夏は夜に始まった。
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Kani&Okiな週末。


      


たまに、思うことがある。この美しき地球上で人間が歩きまわる前に我が物顔をしていたのはひょっとすると蟹ではないだろうか。少なくとも、私が住んでいるここいらは、そうに違いない。夜、散歩に出掛けようとして外に出るとサササ、ササ、サッ。数えきれないほどの蟹が身を潜める気配を感じる、サササ。人の居ない時間帯は蟹の時間なのだろう。子供の寝ている時間におもちゃ箱の中のおもちゃが自由に遊んでいる感じ、アレの蟹ヴァージョンサササ。或いは、私たちが一匹の大きな蟹の上で暮らしている、という可能性も夢があって捨てきれないのよね。よねよね、なんつってる今も室内のソファの上を蟹が横歩きしているサササ。



昨日は昼間、鬼の形相で熱さに耐えながらタコ焼きまくり。夜は鹿児島市内でOKI DUBのライヴ。



市内に向かう車内で些細なことから妻と口論になりお互いイライラしながら到着したのだが、
ステージ上、BAND+民族衣装で演奏するOKI氏を観て、
「あ、OKIさんが本気出してる!初めて観た!本気出してるとこ!うわ!すごい!楽しい!」と言ってはしゃぐ妻の横顔が面白かった。夫婦間の不快な感情を一瞬で掻き消してモっていくOKI DUBの素晴らしきサウンドに喝采。強烈な時間。にもかかわらず途中で一瞬、私はなぜか醒めてしまい「このアイヌの末裔は得体の知れない楽器と仲間を引き連れてわざわざ北から南の端までやってきて現代風にアレンジした民族音楽を爆音で奏でて南の土地に暮らす若者や中年を躍らせて忘れさせて心なしかhappyにさせて、難儀なやっちゃでvivaトンコリ!」と、右手のグラスを天高く掲げた。久しぶりに会えた友人諸君とも少ないながらも言葉を交わせて嬉しかった。thanks Hamas.


異端児の城。


思えば、ずいぶん遠いところまで来たもんだ。

自分の生まれ育ったこの街が嫌いで仕方なくて誰にも気づかれないように呪うほど嫌悪してようやく18になり中途半端なダサい訛りと人の目と耳を余分に気にして身を屈めて過ごす暮らしにアバヨと手を振り捨てた故郷。大袈裟ではなく、あの日は、そんな気分の春だった。それから遠く、遠く、遠くを指さして歩いて暴れて恋してフラれて泣いて笑って本読んで、ろくに働きもせず吸って吐いて映画観て、愚痴は零さず音楽に揺れて、晴れ晴れと転がって躓いてそのまま眠り、甘い夢を見てまた起き上がり旅を続けて、地球ってのはホントに円いんだねえ、一番遠くを目指したつもりが一周して生まれ育ったあの街の目と鼻の先に侘しくも自分なりの楽園を見出し最愛の恋人と二人で暮らし始めた。平坦は退屈で繰り返しも退屈で田舎は退屈で物語はなにも始まらないと思っていた。全ての若者がそうであるように、いつかの僕も青く、ほとんどの勘違いを真実と信じて疑わず何も、知らなかった。そして今夜、僕はようやく33歳になったゾロ目。相変わらず勘違いしているかもしれない、相変わらずそれらを信じているかもしれない、でも知っている。それでいいことを。
経年進化を楽しめよ少年、繰り返す日々の営みに小さな幸福を見つけて青年。ゾロ目。33、なんか愉快。


気楽さと温かさの証明。

              



あの日、僕が望み、僕が挑み、僕が狂った大きな波に比べれば全然足りない刺激ではあるのだが快感であることに変わりはなく、今朝も、ささやかではあるが波乗りを楽しむことが出来た。

とはいえ、その頃に比べると僕のスタミナは随分と心細いものに変わり、今でも一丁前に群衆よりも沖に出て群れの先端でタテガミを風に振わせるライオンのノリで独り、セットが入るのを待っているのだがそのセットが入ったところでそのセットをナイスに乗りこなせる程のスタミナもスキルも腕力もなく、泣く。1時間が経たずにくたびれて濡れた背中をまるめて、とぼとぼと家に帰る。その際、浜辺に残る僕の足跡の心細さと情けなさといったらもう。



それでも、こうして遊ぶことの出来る環境がやはり嬉しい。





近頃は、野菜や果物、魚類を頂く機会が多くなった。そして、頂いた野菜や果物、魚類を小分けして別のおじいさんおばあさんの家に御裾わけすることで、これまた別の野菜や果物、魚類を貰えることになり、自然と食卓が豊かになる。この循環がここに住むことの気楽さと温かさの証明なのだ。我が家の小さなビーチサイドガーデンも順調だ。雨が降ると水をやる手間が省けて助かる(雑草の伸びる速度には頭を抱えるものの)。なるほど、こういうことかと骨身に沁みる。僕らはこの侘しい漁村の片隅で、僕らの成長過程で失われた普遍的な日本の暮らしの断片をてろてろと掻き集めて、少しずつではあるものの、ポケットに入れ直している。都市暮らしの感性と、田舎暮らしの智慧を混ぜ合わせてゆっくりと、丁寧に、愛を撒き散らしてすすめ。









鎖骨と尾てい骨が入れ替わるかと思った。

                                       



週末の真夜中、疲れてくたくたになった身体を引きずって、
遠方からこの町にやって来た友人のLiveを観に行った。
彼のステージはいつも通り大胆で明るく、
野性的で優しく、今更文句のつけようのない時間だったのだが、
それ以外の演者が見るに耐えられず、腸が捻じれて、
鎖骨と尾てい骨が入れ替わるかと思った、
むしろ猿を眺めていた方がマシな気分だった。
オリジナリティの欠片もなく、
退屈と怠慢溢れる催しにはもう二度と行かない30円でも行かない。
客で来ていた若いギャルのお尻の方がよっぽど価値があったのん。

センスがないのなら、血の滲む努力と磨かれた智慧でそこをカヴァーするしかないはずなのだが、
センスも努力も智慧もないのなら家で美味しいお米の炊き方を研究していた方がいいと思う。
わざわざ夜中に外に出て、
それらを人間に見せるなんて。
途方に暮れちまうほど暇な週末だったんだろうなあと考えた。
ギルガメッシュナイトの無い時代だ、それも仕方ないのかもしれない。
哀しい時代に生きている僕らと、彼らと、彼女のお尻。

このように、
ここで、こんなにつまらない文句を書いている自分のことを思う。
なぜなのだろうか、
外に向けて放つ矢は、同時に、自分の中心にも突き刺さる。
自問自答は成長の糧であり、人のフリ見てわが身を睨む。
生き方を、誤魔化すな、と言い聞かせている。
「今年はほんとに何度もウンコを踏んでしまう」といった内容のことを今日は綴るつもりだったのだが、どうしても、自分の中の引っ掛かりが消化出来ずに。書くことで無くすことにした。さて、月曜日。曇り。

薄べったい雲の上にはそろそろ夏の太陽が笑う。