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波と文学

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山下冗談の冗談じゃない夜について

ふとした調子にfacebookに飛ばされる記事があったりする。うわ、と思いながら右上のお知らせのところに「50」とか記されたりしている、友人申請が3,4人来ている、俺お前なんか知らんし。とかいつも思う。SNS、情報の数と人の浮かれ心がまるで言葉と音の濁流にしか思えず、溺れそうになっちゃうのん、なんつって。今の僕には、閉め忘れた風呂場の蛇口から垂れるちろちろちろが丁度良い、だからこそ、SNSからは聴こえない生の声は聴いておかなければならない。




https://www.facebook.com/events/631120983723002/



第一回・山下冗談の冗談じゃない夜。


まあ、こんなコト知らなくても、僕や君の明日はそんなに大きく変わらないかもしれないけれど、例えば1年後、それより子供たちが大人になった時、「あの時ああすれば良かった」なんて言葉を間抜けな顔して、ボケたフリして、息子に吐きたくないだけなのですん。


旧知の友人である大袈裟太郎くんが全身で体験した沖縄の今について、あれこれ根ほり葉ほり聞いてみようかと思う。それにこれはきっと沖縄の話ではなく、全ての地方都市の未来でありイマだからまるで全然他人事ではない。ちょっと一緒に、考えてみませんか?僕らの子供の未来について、祖国について、今を生きることについて、美しい夕焼けに包まれた後で、西方の海辺で。



[大袈裟太郎と語る高江の今 in Nishikata,Satsumasendai.]


大袈裟太郎の裏祥寺物語




peace




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蝉が、細く細く

風が強い日、雨が乱暴に通り過ぎて行った、良美は歯医者に行った。三吾は後部座席におり、チャイルドシートの上で、ひとりぼっちのくらげみたいに、寝ている。悠々と読書が出来るチャンス(貴重)が訪れた気分になり古本屋へ、100円を3冊、マッハで。これで、悠々と読書が出来るチャンス(奇跡)に浸れると舌で唇を舐めた途端に起きやがる息子。15歳くらいであればワンパン入れてもう一度寝に落とすところであるがまだ1歳だから優しく抱き上げて「はぁい」なんつって、8月が、終わろうとしている。蝉が、細く細く哭いている。




絶望を小脇に

明日、何が起きるかわからないのが人生です。いいコトが起きるかもしれない、とはいえほとんどの場合、悪いコトが起きるもんだがな。だから少年よ、期待などするな、絶望を小脇に、笑顔にて挑むのが人生ってもんよ。

ひょんなコトからまったく知らない人んちの犬の散歩をするコトになった。今日だけ、ではなくこれからずっと。



「名前はリュウ、人間で言うと50歳くらいです」と紹介された、おっさんやないか、わざわざ人間に例えんなよ、といつも思う。犬なんだから犬の年でいいのに、なぜ人は動物を人の年に置き換えたがるのでしょうか、俺は知らない人んちの、知らないおっさん(犬)と散歩するのかよ、リュウって言うよりリュウさんじゃん気マズイわ。とか思いながら初めての散歩へ。リュウさん、久しぶりの散歩でとてつもなく嬉しそうな感じがリードを通じてブンブン伝わってくる。50歳なだけあって歩みに無茶な勢いはなく、どちらかといえばスロウなペースでずんずん行く。待って、と言えば止まるし、こっち、と言えばこっちに来る、正直、1歳の息子より扱いやすいなと思った。リュウさん、こんな感じで週に2,3回散歩しましょうか、付き合いますよ末長くよろしくお願いします。

誰かの為に生きるのさ

滅多にないのだが今日は両親共に仕事があり、三吾をナンシー(祖母)の家に預ける。ほんの数時間とはいえ、なかなかツライ感情がわく。





その後、妻を駅に送る、仕事モードのビシッとした妻を見送る私は、でろんとしたスウェットパンツをハイウエストで履き、ダサい柄のティシャツを着ている。力なく手を振りながら、まるでヒモだった頃を思い出す。高円寺の商店街、古本屋に寄り道して知らない詩人の詩集をピック、喫茶店でクリームソーダの泡を数えた日々。お盆もあけて、町からまた人が居なくなり残ったのは年寄りと野良猫、いつも通りの風景。三吾は元気にしているかしら。ぬるい風がふいて


歩けば、時が過ぎてゆく。
明日のことなんて誰もわからんよ、


いま、この瞬間幸せである為に働いたりもするよ。昔はよくわからなかったことが、今はよくわかる気がする、その逆に、よくわかっていたはずのことがまるでわからなくなってしまったりもしているけどな人生。俺はもはや誰かの為に生きるのさ晴れ晴れと。







コンニチワとサヨナラの間に

朝、息子と散歩して帰ってくると自宅の斜め向かいの家の前に救急車が停まっている。ノリコさんに何かあったのかと不安になる。救急隊員が玄関をノックすると中からノリコさんが出てきて「私は元気ダヨ!ここじゃないよ!」と言う。その姿を見てホッとしてちょっと泣いた俺。救急車は別の家の95歳の婆さんを連れて去って行った。近所のひと曰く、最近多いのよ、もう高齢(95歳)だからね。



ここみたいな限界集落で暮らすうえで街よりも少しだけ密な近所付き合いは必要不可欠なのだが、そうやって過ごした近所の爺さん婆さんがある日急に居なくなる明日が寂しい。そもそも人の一生なんて嬉しいことよりも悲しいことの方がほんの少し多いのだよ。と、わかってはいるものの悲しいことはいつも突然目の前にやって来るから悲しい。
なんてことを朝から考えて少しナーバスになることもある。だから今日もこうして僕や家族や集落の人々が生きて、「わちゃ~今日も暑いわ~」なんて言いながら額を垂れてゆく汗を愛でたい、コンニチワとサヨナラの間に。