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波と文学

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あーあん



暮らしていれば、ささいで、露骨な、嫌がらせを受けることがあるこの現代社会、勘弁してくれよと、心から思っている。私、いつもそこを通るのにそこを塞ぐってそれどういうことですか、そこを塞がれて困るのは、この辺りには私しか居ません。メメメメ、メメメ、チョット、キミ、キミ、コレコレどういうことなのだと尋ねてみれば無視をされて、なお悲しい。食べ物が悪いんだよ、と言う友人がいる。


日常の行動や、思惑の性質は、普段食べている物に左右されるとのこと、

そらそう思う節もあるが。玄海の、廃炉が決まり川内の再稼働も決まった。7月上旬、



あーあん




http://goodbyenukes-kagoshima.jimdo.com/


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ただの「とぼけた季節」である。




1年ぶり、二回目。ココペリの夜、「上善如水」でポエトリー。キャンドルを囲む人間の穏やかな顔面、その雰囲気と空間。人と人の距離感、街の、心地よい違和感、ありがたい春の再会である。すっかり、春である。今朝、外に出て、
つい先日までテトラポットの向こう側に照れ隠れしていた春が!ついに来た!といった感じで心が躍り、さっそく足をくじいてしまった。迂闊に喜ぶことは、もうやめようと思った。

みなさん、本当に優しさが服を着て歩いているような方ばかりなので、途中からニラと泰尊が猿にしかみえなかった。松田くんも、猿寄りだ、「視る詩」を観てくれていた方も多くて相変わらず好感度あげてくるなと感心し、やはり、街もいいな、と浮かれてしまういつものパターン。
景色の丁度良い汚さは嫌いではない。人間の数も多い方が刺激的だろうし新しい何かを目撃する機会も増える、無駄な退屈はないだろうな、と街を離れて実感する愛郷心かもしれない、春ですねと思う。出逢いや別れの季節と言われているが、そういえばさほど大きな春の出逢いや別れに関わっていない近年の自分にとっては、ただの「とぼけた季節」である。あの夜は、宙葉くんとニラの短めのセッションも印象的でした。二人とも、テラスで気持ちよさそうな顔でギターを弾いているとマスターの手先みたいな人が来て「この時間に、外はちょっと」と、申し訳なさそうな顔で告げられた二人が半泣きでギターを置いた時に、なんかいいなと思った。帰りのタクシーの中で、僕は歌を唄った。



ありがとうございました。

水のような生き方。



風の丘で開催中のイヴェントに終日気持ちを引っ張られながら勤労。夕方に終え、山間のしょぼくれた温泉街へ、100円玉を握り締めて流浪する。古き、黄金時代は旅館として栄えるも、時代の流れと共に近所の老人共の共同浴場と化した風呂屋を見つけ、入浴。ぬるさが丁度いい湯に満足。帰路の途中で実家に立ち寄り久しぶりに母と晩飯。帰宅後、21時くらいか、ベッドに倒れ込む。

去年に引き続き、タムくんに誘ってもらい今夜は博多でliveである。

「上善如水~Cocoperiアコースティックセッション~」
▽日時▽ 3月15日(日) 21:00 START
▽料金▽入場無料(要ワンドリンクオーダー)
▽会場▽Cocoperi 福岡市中央区今泉2-3-28
▽演▽高石 純二・宮原 良仕子・山下 冗談 & 暗黒 ニラ
▽食▽ミウラパン
▽灯▽dara1945

博多の愉快な皆さんと一年ぶりに再会出来るのが楽しみである。今年は、出張帰りの暗黒ニラと現地で落ち合うことになっている。近頃、ライヴが愉しくて仕方無い。


どこか遠くに出掛ける時には隣りに妻が居るので普段は退屈しないのだが、今回は里帰り中。このliveに合わせて博多で合流することになっている。車内で落語を聴きながら1時間そこらのドライブなら平気なのだが、博多はやはり遠い。退屈を誤魔化す為に、誰かよく喋るヤツを連れていこうと思いついた暴れヌンチャク「泰尊」に声を掛けてみたところ「行く!行く!行く!」と嬉しい反応。つまりは、博多のイヴェントに彼も飛び入りで参加させてもらうことになった。とはいえ、ラッパーとしての彼の語彙のセンスと情熱は折り紙つき、世界中、至るところで磨いたその度胸と純粋な優しさを今夜も魅せてくれるはずだ。これまた楽しみが増えてほくそ笑む俺。

さて、帰宅した良美の機嫌を損ねぬよう、これから自宅の片付けと掃除。妙な時間に目が覚めてしまったもんで、徐々に眠たくなってきた。はははん





曇天と海

どれほど時が過ぎ、場所が変わり、年を重ねても3月11日が巡るたびに2011年のことを思い出し続けるのだろうな。こんなにも、人生を変える出来事が、この先あるのだろうか。もしも「在る」のならばせめてそれは、愉しいことであって欲しいと心から願っている。穏やかであれ、安らかであれ、死んだ人も、生きている人も。と、一人暮らし10日めの朝。珈琲をすすりながら二階の窓から曇天と海、眺めて。

こころおだやかに。なんつって



粘着性の強いノイジーな感覚。それは怒りの感情に近いのだが、「キレる」というのが強火だとすれば、弱火のうちから、その時点で、それはもう既に自分にとって、自分の心にとって。心というのか、頭というのか、肉と皮に包まれた、自分の内側の真ん中の形のない、霊的なソレね。それにとって、もっとも邪魔であり毒であり、インスピレーションを妨害するのが冒頭に書いている「粘着性の強いノイジーな感覚」なのよね。有害な添加物は何も食べるだけではなく、目や耳や心や頭で感じることも出来るから、厄介である。なので、自分はなるべく怒らないようにムカつかないように細心の注意をはかっている。まあ、ムカつき始めたらキリがないわけで、三十余年連れ添っている“自分”の短気をよく知っているからこそ、と言える。心、穏やかに、なんつって文字にすれば簡単で単純なことに思えるがそれは「怒る」ことよりも当然、複雑な思考・感情回路を経て辿りつける場所にある。今夜、うどん屋で食べたうどん、少し硬いし天丼のタレ、多すぎるし濃すぎるぜ、心、穏やかに。

まったく。今ごろ、どこ歩いてんだ馬鹿。せめてひとこと「Good Bye」くらい置いていけよ。それでも僕は「ありがとう」と言いたかった。